恥を抱えた自分に、温かい眼差しを向けることができるか。

恥ずかしい思いをすることがある。

それは苦々しい体験だし、嫌な気分になる。

そんな感情を味わいながら、私たちは前に進んでいく。

 

良い気分になれることばかりだったらいいのにとも思う。

いつも楽しくみんなと仲良くうまくやってけたら、それはとても素敵なことだと思う。

 

ただそんなにうまくはいかない。

少なくとも、私の人生はそうだ。

 

人は誰しも産まれたての赤ん坊の頃から、失敗や迷惑をかけながら成長していく。

できないことができるようになっていく過程に、失敗や恥はつきものだ。

そう考えれば、失敗=恥ずかしいと思う必要はない。

 

生きている限り、思い通りにならないことは避けることができない。

それだけじゃない。思い違いや不意についた嘘で傷を広げてしまうこともある。

 

反省できる失敗ならば、反省して前に進めばいい。

恥ならば、それを飲み込んで生きることも必要になる。

そんな脆さがある自分をも受け入れることができると、人生は少し楽になるはずだ。

 

「迷惑をかけることや失敗をすることは当然で、それを恥ずかしがる必要はない」

この認識は当たり前のようで当たり前ではない。

 

思うに、この言葉は、誰か他人に向けてはすごく言いやすく、自分対して発するのは少し抵抗を感じることがある。

なぜだろうか?

なぜ他人だと許せるの自分には許せないんだろうか?

 

考えてみると、自分に対する優しさが足りないのが理由なのではないかと思う。

なぜだか、私たちは自分には優しさを向けるよりも厳しさを向けるべきなのだと思い込んでいる節があるのかもしれない。

 

他に代わりがいない自分にだからこそ、最高や完全を求めすぎてしまう。

期待しているあまりに、ガッカリしてしまう。

もっとできるはず、いい思いをしていいはずと思うあまりに、懲らしめてしまう。

 

でもそんなのはちょっとおかしい。

肩に力が入りすぎている。

もっと他者を見るように、優しい目を向けてもいいはずだ。

 

自分にだけは厳しい眼差しを向けなければいけないという理由はない。

失敗も許し受け入れ、温かい目で見守って前に進んでいった方が良いのは、他人でも自分でも同じだ。

 

他の人たちを優しい目で見る自分がいるのだとすれば、それはきっとそんな優しい目で自分も見てもらいたいと思ってからではないのか?

その優しさは自分にも向けていいはずだ。

 

人はネガティブなことに注目しやすい。

嬉しいことよりも悲しいこと、楽しいことよりもつらいことに目を奪われやすい。

特別な危険から身を守るためには役に立つが、実際の私たちの生活には、そんな危険は多くはない。

 

心配の9割は、実際には起こらないという話を聞いたことがある。

本当はもっと失敗を恐れずチャレンジしてみてもいいはずだ。

 

失敗は悪いことではない。

恥ずかしさは、嫌な感情を植え付けるだけのものではない。

そんな感情や体験を通して、私たちは成長していくし、平面的で浅い人間から、深みのある立体的な人生を生きていくことができる。

 

あなたは今、どんな恥ずかしい思いを抱えているだろうか?

恥になりそうな種を見つめて、それを心配してはいないだろうか?

もしかすると、それを掘り起こして別の方向から見てみると、全く別の感情が生み出されることがあるのかもしれない。

 

私たちの心の中には、きっと弱気な自分もいるし、逆に人にはまだ大きな声では言えないけれども大きな夢抱えて諦めない自分もいる。

 

それを手に入れたいがために、変わりたい。

そんなものがあなたにはあるだろうか?

 

恥ずかしがる気持ちはわかる。

恥をかいた自分から逃げ出したくなることもわかる。

でも、そんな自分自身をもっと優しい温かい目で応援していてもいいんじゃないだろうか?