変わろうとしない厄介な自分と向き合い、どう生きるかが人生を決めていく。

人は躓く。

必ず転ぶし、怪我をする。

でも、それを乗り越えることができる。

 

恥をかくような失敗をするし、ある時には嘘をついたり、人を傷つけてしまったりすることもある。

よく生きようとか、誰かのためになんてことを思っても、うまくいかないこともある。

一大決心をしてはじめたことを、いとも簡単に捨ててしまうこともあるし、

自分の意思と関係なく、捨てられたり裏切られたりすることもある。

協力してやっていきたいと思っているのにも関わらず、関係をうまく築けないことで、人が離れていくこともある。

ある時には未来に希望が見出せずに、過去に囚われて落ち込むこともあるだろう。

 

でもだからといって、不格好で、醜いと思う部分があったとしても決してダメなんかじゃない。

当然、価値がないわけでもない。

大小はあるが、誰しもがそんな影を抱えている。

 

人の魅力や色気というものは、自分の脆さにどう向き合うかにあらわれると私は思っている。

傷つく可能性がある世界の中で、人生は否応なしに選択を迫ってくる。

 

複雑な思惑が絡み合う世界は、いつも不安定だ。

災害、戦争、テクノロジー、掴みどころのない世論に影響を受けながら、人生と時代は進んでいく。

 

時代を変える、他人を変えることは難しいが、自分を変えることはできる。

どうしていくかは自分でしか決められないし、自分でしか決めていない。

誰かのせいにするのも、自分のせいにするのも、そんなことを考えるのをやめて、なにか新しい自分になるために踏み出すことも、自分でしか選べない。

 

逃げることだって悪いことではないし、諦めることも時には必要だ。

私は、悩みがある人間が好きだ。

 

私たちは一瞬一瞬、行動を選択をしている。

そして感情を選択している。

そして、好むと好まざるに関わらず、その選択に責任を負わされるのだ。

 

躓きには痛みが伴うが、悪いことではない。

躓くからこそ、人生は豊かになるし、楽しくなる。

 

自分という存在をどう考えるのか、どう思われるように振る舞うのか。

どんな人と付き合い、どんな人から離れるのか。

成長を選ぶのか、満足を求めるのか。

どんな決めつけを握りしめて、どんな決めつけを手放していくのか。

 

傷つく可能性がある世界の中で、人生は否応なしに選択を迫ってくる。

どっちを選んでも正解なのかもしれないし、どっちを選んでも不正解としか思えないこともある。

でも、その選択を積み重ねて、良い方向に向かいたいと誰しもが願っている。

 

これで良かった!と自分を振り返るために必要なこととは一体なんだろうか?

 

親も、生まれる時代も、過去の選択も変えることはできない。

変えられるのは、今からの選択だけだ。

変わろうとしない厄介な自分と向き合い、なにを守り、なにを選択するかで人生は変わっていく。

 

戦わなければ手に入れられないこともあるし、戦ったとしても敗れてしまうこともある。

望む未来のために、あなたはどのような選択をするのだろうか。

 

私は幸せに生きたい。

幸せになれない瞬間があったとしても、それはそれでいい。

 

ただ、幸せをより味わい生み出すためにできることがあるのだとしたら、躓く可能性があったとしても、そこに一歩を踏み出したい。

 

 ただ批判するだけの人に価値はないーー強い人のつまづきを指摘し、やり手ならもっとうまくできただけだとあげつらうだけの人には。
称賛に値するのは、実際に競技場に立ち、誇りと汗と血にまみれながらも勇敢に戦う人だ。あるときは間違いをおかし、あと一歩というところで届かないことが何度もあるかもしれない。
何をするにも間違いや欠点はつきまとう。それでもなお、ことを成し遂げるために身を粉にして励む人こそ偉大なのだ。
順風ならば最後には勝利に輝くだろうし、最悪の場合、失敗に終わるかしれない。だが彼らは、少なくとも果敢なる挑戦をしたのである。

セオドア・ルーズベルト「競技場に立つ人」

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